日本での発展

計算尺の伝来

海外では17世紀に計算尺が発明されましたが、日本に計算尺が登場したのは明治時代になってからです。日本に初めて計算尺がもたらされたのは、明治27年(1894年)のことです。工学博士の広田理太郎と、当時内務省土木課長の近藤虎五郎が、欧米視察の帰りに、お土産としてフランスから持ち帰ったマンハイム計算尺が初めて日本に渡った計算尺です。これを機に、日本における計算尺の発展が始まりました。

逸見治郎による計算尺研究

日本における計算尺の発展にもっとも大きな影響を与えたのは逸見治郎です。当時目盛工だった逸見治郎(1878-1953)が、広田理太郎と近藤虎五郎が持ち帰った計算尺を見て製作の研究を始めたのが、日本製計算尺研究のスタートでした。

逸見治郎がまず研究課題としたのは、日本固有の気候的悪条件を克服するかということでした。日本は、じめじめした梅雨、湿度の高い夏、乾燥する冬など四季の気候の変化が激しい国です。計算尺はとてもデリケートで、気候が変化すると目盛が狂ってしまいます。計算は精度が大切ですから、気候の変化による目盛のずれをできるだけ抑える必要がありました。逸見治郎は、国内のあらゆる木材を数年にわたり実験を繰り替えし、日本固有の竹材が最適だと思いました。竹材は、全体が一様に伸び縮みをし、伸びる比率がほとんど同じだったのです。普通の定規は、メートルに対する比率を目盛にしたものなので伸び縮みをしてはいけませんが、計算尺は全体の長さに対する比率を目盛にしたものなので、全体が一様に伸び縮みするのであれば計算に影響を及ぼさないのです。明治45年(1912年)、日本で特許を取り、続いて諸外国の特許も取得しました。これが日本特有の竹製計算尺の誕生です。

日本の厳しい気候に対応できる計算尺の生産方法を確立した逸見治郎の次の研究課題は、いかにして計算尺を大量生産するかということでした。いくら精度のよい計算尺ができても、大量生産できなければ、日本中に計算尺を広めることはできません。大正12年(1923年)、逸見治郎は独自の機械切刻方法を考案し、目盛の精度と大量生産の両面を満足する方法を見つけ出しました。

その後、計算尺の種類の考案などを進め、現在のヘンミ計算尺に至ります。下記の参考文献に大変詳しく書かれていますので、ご覧ください。

参考文献

計算尺の発達史については、「計算尺発達史, 宮崎治助, オーム社, 1956」に大変詳しく書かれています。私はこの本を「東京都立中央図書館」で見つけました。この図書館では閉庫に入っていました。

このページは参考文献を読んで得た知識を基に、独自の文章で書き表したものです。